アンパンマンの遺書

先日テレビでたまたまアンパンマンについて放送していました。

うちも、子供達が好きだったなぁ。

昔私は、自分に子供ができても、キャラものの服着せたりおもちゃを買ったりしたくない、と思っていました。

おもちゃだってカラフルなものではなく、ナチュラル系のシンプルなものがいいな、なんて。

でも子供たちはまんまとそんな大人の思惑は無視して、カラフルだったり親しみやすいものに飛びつきました。

その一番がアンパンマン!

あまりにもそのまんまのキャラクターと名前。

素朴すぎるフォルム。

アンパンマングッズがあると途端に「小さい子います」っていう生活感満載な感じなる。

でも、アンパンマンて本当に子供たちが反応する。

実はアンパンマンて当初は、あんなにキャラっぽくなかった。

それを教えてくれたのは夫です。

 

夫が子供の頃の思い出。

怪我をして病院に入院していた時にお父さんがお見舞いに来たのですが、その時に持ってきたのがアンパンマンの絵本でした。

そのアンパンマンはまさに初期のもので、6頭身。

そして誰かを助けるために自分の頭を直でかじらせるという・・・!

子供だった夫にも強烈な印象だったというのです。

その姿があまりにもシュールすぎる!と保護者から批判が殺到したとか。

首のないアンパンマンも描かれていて、確かに衝撃的ではありますよね。

 

そんな初期のアンパンマンから、やなせたかしさんに興味が出て、以前出版した本を読みました。

 

アンパンマンの遺書 

 やなせさんが75歳の時に書かれた自叙伝です。

やなせさんの生い立ちや、仕事の変遷、そしてアンパンマンの誕生などが詳しく書かれています。

出生から中年まではけっこう紆余曲折

やなせさんは1年の浪人の後に東京高等工芸学校図案化(現在は千葉大学工学部)に入学し、友達やすぐ近くの銀座の街から色々な影響を受けます。

 卒業後は、

田辺製薬図案化入社→徴兵→終戦後高知新聞に入社→奥さんとの出会い→結婚後上京→新橋の企宣社入社→日本橋三越宣伝部入社→退社して漫画家業で生計を立てる。

漫画家になって食べるのには困らないまでも核とするものもなく、頼まれるままに色々な仕事をこなす日々だったそう。

仲間や友達がどんどん才能を開花させて突っ走っていくのを見ながら、方向性や評価が定まらない自分に焦りも感じていたようです。

数々の才能ある人との交流

自伝の中にたびたび今でも著名な人との関わりが出てきます。

永六輔さんや映画雑誌のエッセーを書いていたことで後の向田邦子さんとも知り合い交流があったそう。

しかし中でも、手塚治虫さんとの出会いはかなり衝撃的だったそうです。

圧倒的な画力とストーリーの面白さで漫画界に衝撃を与えた手塚治虫さん。

実はやなせさんは手塚治虫さんから依頼されて、アニメーション映画「千夜一夜物語」のキャラクターを制作したんです。

 

 「千夜一夜物語」の大ヒットの後は、やなせさんの作った話「やさしいライオン」をアニメーションにしました。

 

そして一番その後のやなせさんの運命を変えたのが、山梨シルクセンターの社長、辻信太郎さんとの出会い。

山梨シルクセンター・・・何?お土産やさんかな?と思いましたが・・・。

「山梨シルクセンター」(今のサンリオ)社長との出会い

お菓子の箱や雑貨など統一感のないものを作っていた小さな会社「山梨シルクセンター」の社長の辻さんが、やなせさんに詩集を依頼して出版することになりました。

その詩集がよく売れて、後にやなせさんが発案し、詩にイラストレーターが絵をつけている「詩とメルヘン」という雑誌を創刊することになります。

 

でもその時には「山梨シルクセンター」は社名を「サンリオ」に変えていました。

「詩とメルヘン」、私も小中学生の頃買っていましたが、なぜ「サンリオ」から出版されているんだろう?って思っていました。

まさかこんな出会いから作られていたとは・・・!

 

ちなみに「サンリオ」は「山梨」からとっていたそうです。

衝撃ですよね!!!

詩とメルヘンはその後人気が出て月刊誌になりましたが、発行部数がどんどん減っていき、今では休刊しています。

収益は生み出さない本だったようですが、社長がそういう詩やメルヘンの世界が好きで大切にしていたからサンリオのキャラクターが生まれたのかもしれません。

今はもう忘れ去られている「詩とメルヘン」ですが、やなせさんの故郷、高知県高知市の「やなせたかし記念館」でアンパンマンミュージアムに隣接した「詩とメルヘン」絵本館があるそうです。

 

ちなみに辻さんは社長の座から降りてはいますが、サンリオで発行している「いちご新聞」で王様からのメッセージを今まで43年間ずっと書き続けています。

www.sanrio.co.jp

読んだら・・・感動してしまいました。

今は何でも「売れたらいい」というものが多い中、やっぱりスピリットがないとだめだなとあらためて思います。

アンパンマンのモデルはフランケンシュタインだった!

 1973年、やなせさんが54歳の時、ようやくアンパンマンが世に出ます。

登場したときは「あんぱんまん」でひらがなでした。

この絵本で、一番やなせさんが描きたかったのが「顔がなくなったアンパンマン」が空を飛ぶところだったそうです。

 

本当の正義はかっこいいものではないし、自分自身も深く傷つくものだ。

ということを伝えたかったということでした。

 

しかしかっこ悪いヒーローに出版社からも大不評。

その後細々と続けているうちに子供から大人気となり、アニメ化となりました。

 

でも、やなせさんが一番描きたかった部分は変えられてしまいましたね。

少しかじられたら「アンパンマン、新しい顔よ!」とすぐに新しい顔にすげ替えられますからね。

 

そしてアンパンマンの誕生のヒントになったのがフランケンシュタインで、「若きウェルテルの悩み」を読んで涙する怪物像にやなせさんは大笑い。

また「青い鳥」でパンの妖精が出てくることに驚いて、それがフランケンシュタインと合体してアンパンマンが誕生したそうです。

 

しかし漫画やアニメ版では、生命の星がブラックホールから飛び出してジャムおじさんの工場に突っ込んでアンパンマンが生まれたとなっています。

 

さて今でもちびっこに大人気のアンパンマンですが、5歳になるくらいから「アンパンマンは弱いからイヤ」とか「俺、バイキンマンがいい」とか言い出す子供が増えます。

そしてその後はポケモンとか妖怪ウォッチとかプリキュアとか、違うキャラクターが良くなって、アンパンマングッズは部屋の隅においやられ見向きもされなくなったりします。

アンパンマングッズはちょっとね・・、なんて思っていたのに、あんなに好きだったアンパンマンに手のひら返したように冷たくなる子供達を見ると、ちょっと切ない。

 

こういう現象、やなせさんはどう思っていたんだろう・・・?

 

でも、それは成長の過程なんですよね。

アンパンマンを卒業して、いつか「子供っぽいもの」という認識しかなくなっても、自分の子供ができた時にまた、アンパンマンに出会うことになる。

 

おしゃれじゃなくて、洗練されてなくて、でも何か子供の心に響くんですね。

 やなせさんの歌

大事な骨の部分を色々と変えられたアンパンマンですが、歌詞はやなせたかしさんの作詞そのままです。

 

一部抜粋

なんのために生まれて 何をして生きるのか

答えられないなんて そんなのはいやだ!

〜中略〜

そうだ うれしいんだ いきる喜び

たとえ 胸の傷が痛んでも

 

  一部抜粋

もし自信をなくして くじけそうになったら

いいことだけ いいことだけ 思い出せ

〜中略〜

アンパンマンは君さ 元気を出して

アンパンマンは君さ 力の限り

  

  一部抜粋

僕らはみんな 生きている

生きているから 嬉しいんだ

僕らはみんな 生きている

生きているから 悲しいんだ

手のひらを 太陽に すかしてみれば

真っ赤に流れる 僕の血潮

最後はアンパンマンの曲ではありませんが、アンパンマンバージョンもあったのでそちらを貼りました。

やなせさんは朴訥とした人でありながら、やっぱり熱い人だったんではないかなと歌詩や作品を見ると思います。

いきあたりばったりみたいに見えるキャラクターの数々ですが、その中に流れる自己犠牲の精神や、本当のヒーロー像を考えて作られたアンパンマン。

超大作でもスタイリッシュでもないですが、素朴で安心感のあるあの顔は、この先もずっと人気なのかもしれません。

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